2010年 05月 14日

境目の声

うたうこと と しゃべること 
ヒトがどちらを先にやったかといえば、うたの方らしい。
楽器の中でもっとも原始的なもののひとつは、物を叩く“太鼓”ときく。
物を叩きながら抑揚のついた声を出す“うた”の方が、“しゃべる”より先だった
だろうことは想像できる。
ある時読んだ新聞記事に「類人猿と人類の運命を大きく分けたのは、口の中のある
器官の発達だった」とあった。
(スクラップという良い癖を持たないので、うろ覚えです)
このある器官の発達によって人類は、様々な母音と子音を発することが可能になり
結果、種々の言葉が生まれ、文字、印刷を通して文明を形成していった
とのこと。
この記事を読んで思った。
人には発音できる器官、機能が備わっておりしかも“うたう”という作業は原初的な
喜びであるはずなのに、なぜ声楽の道に入ると、そのどちらも侵蝕されがちになるの
だろう?

15才で声楽をはじめてすぐに感じたことは「歌っていて言葉が普通に言えないと
気持ちよくない」だった。自分が歌うにしろ、他人の歌を聞くにしろ、歌声がなんと
発音されているかわからないとストレスを感じたのだ。
以来、言葉を発音することと歌うことの関係を延々と考えている。
どうやったら しゃべるように歌えるのか?
しゃべりとうた この2つの境目はどこか?
しゃべっていたものが歌となる瞬間はいつか?
境目はあるのか?

「しゃべりとうた」の境目を行き来してみたい。
その思いが高じて、高橋悠治さんにモノオペラの作曲をお願いしました。
言葉は、詩人の時里二郎さん。

上演は東京にて、7月です。これについてはまたすぐに!

by hatano-mutsumi | 2010-05-14 13:30 | エッセイ


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