カテゴリ:エッセイ( 53 )


2010年 05月 30日

禁句3種

当てる・鳴らす・響かす

発声する上での禁止指定事項。私にとってはこの3つ。
「ねらう」「あつめる」 これらもまた危険区域だ。

声楽のレッスンでは「当てて」「鳴らして」「響かせて」という指示の単語は
一般的だが、私には言うのも言われるのも心地良い言葉ではない。
初めての生徒さんのレッスンではまず、この3つを意識することを
「やめてみましょう」と伝える。
すると大抵面食らった顔をされるので
「当たった・鳴った・響いた という“結果”はもちろん歓迎!」と説明する。

当てよう・鳴らそう・響かそうとする意識は“りきみ”を生むと思うからだ。
だが体のどの部分に力みが生じるかは、人によって違うだろうし、
こういった単語で発声をイメージしても全く力まない人もいるだろう。
私は、力みます。特に後頭部、首の後ろ、あご etc・・・。
「あぶない」と感じてしまう理由はもうひとつ。
その意識によって成功した場合、鳴ってるな・響いてるなという快感のアンテナが
歌っている間ずっと心身の内側に向いてしまいそうだから。
力んで生まれた音は大きな音量になることはあっても、
空間を狭く、開放されないものにしてしまう。

禁止!と思わなければまずい、というのは
それだけ私は捕まりやすいということですね。
書いてて気づく。

良い歌声を定義するのは不可能だが、あえて言うなら
「通りのよい声」というのが、今は一番近い表現だ。
空間をよく通る声、というだけではない。
「体を通りぬけている声」だ。
首から上だけ・胸から上だけでは「通り抜ける」にはならない。
足の下の地面から体を通って空気に還っていく。
なにが? 通っていくのか?
息 なのですが、この話はまた。

by hatano-mutsumi | 2010-05-30 14:00 | エッセイ
2010年 05月 14日

境目の声

うたうこと と しゃべること 
ヒトがどちらを先にやったかといえば、うたの方らしい。
楽器の中でもっとも原始的なもののひとつは、物を叩く“太鼓”ときく。
物を叩きながら抑揚のついた声を出す“うた”の方が、“しゃべる”より先だった
だろうことは想像できる。
ある時読んだ新聞記事に「類人猿と人類の運命を大きく分けたのは、口の中のある
器官の発達だった」とあった。
(スクラップという良い癖を持たないので、うろ覚えです)
このある器官の発達によって人類は、様々な母音と子音を発することが可能になり
結果、種々の言葉が生まれ、文字、印刷を通して文明を形成していった
とのこと。
この記事を読んで思った。
人には発音できる器官、機能が備わっておりしかも“うたう”という作業は原初的な
喜びであるはずなのに、なぜ声楽の道に入ると、そのどちらも侵蝕されがちになるの
だろう?

15才で声楽をはじめてすぐに感じたことは「歌っていて言葉が普通に言えないと
気持ちよくない」だった。自分が歌うにしろ、他人の歌を聞くにしろ、歌声がなんと
発音されているかわからないとストレスを感じたのだ。
以来、言葉を発音することと歌うことの関係を延々と考えている。
どうやったら しゃべるように歌えるのか?
しゃべりとうた この2つの境目はどこか?
しゃべっていたものが歌となる瞬間はいつか?
境目はあるのか?

「しゃべりとうた」の境目を行き来してみたい。
その思いが高じて、高橋悠治さんにモノオペラの作曲をお願いしました。
言葉は、詩人の時里二郎さん。

上演は東京にて、7月です。これについてはまたすぐに!

by hatano-mutsumi | 2010-05-14 13:30 | エッセイ
2010年 05月 14日

スタート

緑のグラデーションが目にうれしい季節。
新しいことをはじめるのには良い時です。

このブログには日々頭を巡っている、歌の周りのこと 
声・音・体 について書いていきます。

更新は週1回。
 うっそだぁ~
と 周りからつっこみの合唱が聞こえてきます。

たまには自分に何か課さなければ!
よろしくおつきあいください。

by hatano-mutsumi | 2010-05-14 12:00 | エッセイ